魅力的で美しいもの、として例えどんなに困難な社会状況(戦時中だったり、震災の後だったり)としても、
「こういう生き方ができる人がいたなら“素敵な人”と、こういうことが自然と生まれる社会こそ素敵な社会」と認めよう、と
映像を通して(言葉ではなく、映像作家としての表現力を使って)監督が言っているように、私には思えました。
お金が一番、国家のプライドが一番、とかいう価値観が大手を振って歩いている現代日本に対するつぶやきではないかと。
いや、思い返してみれば、宮崎監督が映画の中で描き続けてきたのは、「カリオストロ」の頃から、
対価なく誰かのために戦い、「なんて気持ちのいい連中だろう」とだけ言わしめて、人の心をさらっていくような人物像ではなかったか。
“対価なく”というのは語弊があるかもしれませんね。自由と好きな女の為なら、でしょうか。“気持ちのいい連中”が権力に身を阿ることは決してない。
「ファシストになるより豚のほうがましさ。」「俺は俺の稼ぎでしか飛ばねえぜ。」と。
これらは私の思い込みで、全然チンプンカンプンなことを言っているのかもしれません。
内田樹氏がブログで語っているように、“良い映画とは見た人それぞれが、それぞれの切り口で受け取ることができる懐の深さをもっているもの”と
思いますので、私も成長するとともに、この映画から受け取るものが変化するのを楽しみにしたいと思います。
それを確かめるためにも、ブルーレイ・ソフトがでたら買って何度か見直そうを思っています。
とりあえず、私が「風立ちぬ」を初めて映画館で見ながら頭の中をめぐっていたのは、以上のような事柄でした。